もーりーの徒然

福島県出身の27歳。英語学習、海外、読書、野球。アウトプットの場所。

熱心さゆえの教育幻想

『友だち幻想』著:菅野仁を読んで、興味深い章があった。【先生は生徒の記憶に残らなくていい】というタイトルだ。読み終わった後の納得感が強かったのだ。

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実はこの本、私の大学時代の恩師が授業中にプリントとして一部配布してくださったことがあり、そうとは気づかず買って読んでいた。が、この章を読んだときに、「あ、絶対読んだことある!」と気づいたのだ。それだけ当時の印象も強いものだった。

教員志望者の中には「子どもたちを育てたい!」と息巻き、自分の考えを伝えたい気持ちが非常に強い方が一定数いる。私は大学での教職課程を経て、そういう雰囲気がなんとなく苦手だったのだがその正体をこの本は示してくれた。

そもそも教師という漢字が好きになれない。例えば学校生活の指導者、職業的な呼び名といった位置づけに納得はするのだが、人生の先輩(本文の言葉を借りれば金八先生)のような捉え方が好きになれないのだ。自分のことを1人称で「先生は~」というのを聞いた日には一人ゾワッとしている。

これは「大人というのはそんなに偉いのか?」という小さいときに抱いていた疑問に基づく気がしている。今私は27歳で、学生から見れば大人の部類だが、考え方とか振る舞いは昔からあまり変わっていない。だから聞かれもしないのに教師―生徒という構図の中で自分論を生徒に説く行為に冷めた視線を送ってしまうのだ。

クラス担任を持つようになると、1年の間の200日くらいは生徒と顔を合わせるようになる。そうすると否が応でも生徒に多少の影響力がある立場で、教師本人が「伝えるんだ!」みたいな意欲が強すぎると、土足で他人の家に上がりこむような図々しさを覚えるのだ。当然指導員としての責任ある発言は不可欠だが、30人以上の個性集団に同じ方向を向かせようとする行為自体がそもそも怪しいと思っている。

情熱をもって授業準備からクラス作りまでしていくことは全く否定していないし、むしろそうであるべきだと思う。でもちょっと肩に力が入りすぎて、対生徒だけを考える教師になってしまうと、自分の考えに執着し、同僚や生徒の意見を取り入れられないような凝り性になる可能性がある。それは是非とも避けたい。

それより本章で言われているのは、学校というのはあくまで社会に出る前の準備段階という位置づけで様々な人と「共存」のトレーニングをする場であるということだ。友人であれば自分と趣味嗜好の合う者同士だけで関わればよいのだが、社会人となると好き嫌い問わず、適切な距離感を保ちながら他者と「共存」することが求められる。人間関係において過度に近づきすぎるから心に波が立つ。学校や教室はそうした多様な人とも共存できる場であるよう(それは教師と生徒の間柄でも同じ)、生徒の身と心の安全が保たれるような空間を最低限確保していきたい。

そしてその過程で、例えば私にとっては授業を通じて英語を面白いと思ってもらえたり、短期の留学などがきっかけで将来海外で活躍したいと一部の生徒に思ってもらえたら、それはもう満塁ホームランなのだ。